「リニア工事費が4兆円増、総額11兆円に」。そんなニュースが流れたとき、思わずテレビの前で息をのんだ。リニア中央新幹線は長らく「日本の未来を支える国家プロジェクト」として語られてきたが、最近の報道を追うほどに、その輝きがどこか曇って見える。果たしてこの“夢の超特急”は、今もなお私たちにとって必要な夢なのだろうか。
工事費は倍増、開業は未定のまま
JR東海が10月に発表した資料によれば、品川―名古屋間の工事費は11兆円に達する見通しだ。当初5兆5千億円だった計画から、わずか10年で11兆円へと倍増した。この“5兆5千億円から11兆円への跳ね上がり”という数字の変化は、読者に強い印象を与えるだろう。物価上昇や労務費の高騰、そして想定を超える難工事が主な原因とされている。朝日新聞の報道では、増額の内訳として「物価高2.3兆円」「難工事1.2兆円」と明示されている。
そしてもう一つの問題が、終わりの見えないスケジュールだ。静岡工区では南アルプストンネルの着工メドが立たず、JR東海自身が「開業時期は見通せない」と明言した。2035年開業という数字はあくまで資金計画上の仮置きに過ぎず、現実味を欠いている。沿線自治体からは「本当に完成するのか」「地元経済にどんな影響があるのか」といった不安が募っている。
「速さ」はいまも価値なのか
リニアの最大の特徴は、その圧倒的な速さだ。品川から名古屋までわずか40分、品川から大阪まで67分。現行の「のぞみ」と比べて、半分近い所要時間に短縮される。しかし、この“速さ”の背後には、11兆円という巨額のコストが横たわっている。時間の短縮がもたらす恩恵と、そのために支払う代償——その対比こそが、いま問われるべきテーマなのかもしれない。
だが、その“速さ”が果たして現代社会でどれほどの価値を持つのかは疑わしい。オンライン会議が定着し、出張は減り、地方移住やリモートワークが日常となった。時間短縮が必ずしも生産性向上に直結する時代ではない。わずか1時間の短縮に、11兆円という巨額の投資を行う意味を、私たちはどこまで真剣に考えただろうか。
国家プロジェクトとしての意義と限界
もちろん、リニアには「速さ」以外の意義もある。老朽化が進む東海道新幹線のバックアップとして、災害時に日本の大動脈輸送を支える“第二のルート”を確保する——この狙いは理解できる。国土強靱化の観点から見れば、確かにリスク分散の役割は大きい。
また、東京・名古屋・大阪の三大都市圏を1時間で結ぶ「スーパー・メガリージョン構想」も、経済圏の拡大や人材交流の活性化を期待させる。しかしそれは裏を返せば、「地方からの吸い上げ」を加速させる危険を伴う。利便性の向上が、地方の疲弊をいっそう進めてしまう可能性も否定できない。未来の交通網が描くのは、均衡ある国土ではなく、より鮮明な“分断の地図”なのかもしれない。その地図には、人口流出に悩む地方都市や消えゆく地域交通の姿が重なり、リニアの恩恵が誰に届くのかという新たな問いを浮かび上がらせている。

静岡問題が示した“立ち止まる勇気”
リニア計画を最も難航させてきたのが、静岡県を通る南アルプストンネルの建設だ。長年の焦点は大井川の水資源への影響だった。前知事時代には「命の水を守る」として協議が停滞していたが、鈴木康友知事の就任後、議論は前進し、「水資源の主要論点は収束」と報じられるようになった。
それでも、課題がすべて解決したわけではない。希少種・アカイシサンショウウオへの影響、発生土の処理など、環境への配慮をめぐる議論は続く。どれほど技術が進歩しても、自然との共存を軽んじることはできない。静岡の問題は、私たちが技術への信仰に溺れることなく、社会として「立ち止まって考える力」を失っていないかを問いかけている。
速さの先に、何を望むのか
あなたなら、この“速さの未来”をどう考えますか?
リニアは確かに、世界最高峰の技術を結集した“夢の超特急”だ。時速500kmという速度は、移動の概念を変える革新だろう。だが、その夢の代償は11兆円。経済、環境、そして地域社会に及ぼす影響は計り知れない。
「夢だから」「技術の誇りだから」という理由だけで進めるには、あまりに重い選択だ。速さがもたらすのは便利さだけではない。「何のために急ぐのか」「誰のための速さなのか」という本質的な問いを、リニアは私たちに突きつけている。
リニアが開く未来が、単なる過去の成長神話の延長で終わるのか。それとも、社会全体が“成熟した速さ”を選び取るきっかけになるのか。技術の力を信じることと、社会の方向を冷静に見定めること。その両立こそが、いま私たちに最も求められていることではないだろうか。


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